昭和45年11月05日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は、人を助けることができるのは、有り難いことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ。」
そこで人間は、ひとを助けることができるのはありがたいという、人を助けるということはどういうことで助けるかと。いろいろないわば、ものとか、金で助けるということもできるのはやはり人間ですけれども。ここでは一番最後に、有難いと心得て信心せよと仰る。ですからここは何処までも、信心によって助けることが出来る。信心によって助けるということだと。
信心によって助ける。勿論ものやら金やら助ける手立てはいろいろありましょう。それもまた有難いことなんですけども、ここでは信心によって、人間は人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよですから。信心によって人は助ける。いうならば、心で人を助けるということにもなりましょう。いわばそれをちょっと、神様をしんずる力、信ずる心、神を信ずるその心で、人を助けられるということになりましょう。
「76節」のそのひとつ前「75節に」「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃというような御理解が御座います。やはり人を殺すというのも、心で殺すのが重い罪と仰るから、心で殺すことが出来たり、こころで傷つけたりすることができるのも人間です。 心で傷つける、心で殺す、それは重い罪じゃと、形のうえで例えば殺すのは、お上があってそれぞれの、おしおきにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞというのですから、神様のおしおきを受けなければならんことが解ります。
ですから、それと反対にです、ならここの「76節は」人を殺すでなく、人を助けるということに、だから人を心で殺すのが、神様のおしおきに合わんならんなら、心で人を助けるということは、神様からいうならばお褒めを頂くというか、それと反対に報償ですね、報償を受けるということができることになるですね。心で殺すのは重い罪であり、神が見ておるとこう。形の上で殺すことは人間の世界でその、おしおきの法というものがあって、それぞれにおしおきにあうけれど、まあそこに、罪はもうそれで、ある意味で償われるようなものだけど。
心で殺すのは人は死なない。そこでそれを見逃したのはなら神様。天網恢恢疎にして漏らさずである。だから、神様のおしおき、心で殺すのは神が見ておるぞ、こう仰る、ですからここの「76節」それと反対の意味においての、人間は人を助けることが出来るというのは、それの反対の意味に頂くのだろうと、こう思います。やはり形の上で助ける。人命救助など、やっぱ、そんなその、金一封とか、その賞状もらったりするでしょう、こりゃ形の上助けるからで、形に助けるのはならこりゃ人は、人が見てもやはり人が、それを、まあ表彰するとか、そういうことがあるけれども。
こんどは、それとは反対に、心で人間が人間を助けるということ、だから心で助けるということは、それは成程人は知らんかもしれんけども、けれども神様が見ておいでである、ということになります。人の難儀を助けるのが、ありがたいと心得て信心せよ。心で人が助かる、ならその心で人が助かるということはどういうことかというと。有難いと心得て信心せよと、こう教えられるのですから、信心によって助けると。
信心とは信ずる心、それは神様を信ずる心をもって、人を助けることが出来る、ということになりますですね。神様に、神が一礼申すと教祖様に仰っておられますね。天地の祖神様が、教祖の神様に神様がお礼をいうておられる、いわゆる心で助ける力もお持ちになり、心で助けておいでられ、より信心で人を助けておいでられるということはです、神の一礼ということにもなるのでしょうね。
昨日は、竹内先生がお参りになりまして、今度東京へ行っておられました。先生が市長になられてから、まあ次々と、伊万里市が市の上に、まあいろんな変わったおかげが現れておる、そのことのお礼。その中に今度、天皇陛下に献上させてもらう、いわゆる献上米ですかね、をもって米を作られた、篤農の方とご一緒に、天皇陛下に拝謁を許され、皇后陛下から、お礼のお言葉を頂いて。
いわゆる面目をほどこして帰って見えたというのである。皇后様のお言葉に、このお米がないとね、宮中で一番大切な神事、いわゆるお祭り事にですね、のそれがいわゆる新米祭ですね、いわゆる、しんこく感謝祭といいますね、その日を、その一番大事な神事が出来ません。皆さんの御苦労のおかげで、その宮中で一番大切な神事が出来ますという、感謝の言葉を聞かれて、お礼の言葉を聞かれて。
一緒に行ったその、お百姓さんの、その方がです。もう一年間の苦労が一遍でとびましたというておられる。たとえこらがです。神様がこりゃ、皇后陛下であり、又は天皇陛下でありますけれども、まあこれが神様からね、お礼がいうて貰えるほどしの、私は、おかげを頂くということは。神様が一番願っておられる。人の難儀、人間の難儀のことだと私は思います。その人の難儀がですね。
いわば信心によって助けられるほどしの、力を受けた時、受けるとき、またそれが実際に、助けるということに行うじられて行くときにです、神様がお喜び下さるということは。それこそ氏子に還元し一礼申すということにも、私はなろうとこう思いますね。その神様の一礼とは、どういうことであろう、それが私は御神徳だと思います。御神徳という表彰を受けるわけです。ですから、神徳を受けたい、神徳を受けたい。
神徳を受ければなるほど、人間が本当のしあわせ、幸福というのは神徳を受けた人の、姿の中からそれを感じ、また見ることが出来る。神徳を受けなければならない。それにはほんなら、まず、いわば人を助けることの出来ることが有難いと心得ての、信心にならなければならんと思うのであります。帰りに金光に途中下車されて、それで丁度あちらに、4時半にお広前に着かれましたそうですから、金光様のお出ましのちょっと前に。
金光様の御祈念をいただかれて、先生方学院生のお届けがあって、ある意味に信者ではいの一番にお取次ぎを願わして頂いたというておられます。もちろん、御自分のこともですけれども、幹三郎君の事を、金光様にお取次ぎを願いました。というて昨日、御神米を持って、お礼参拝の時にそれを言うとられます。金光様にそのことを、お取次ぎを願われたら、金光様がね。いわゆる私のご縁を頂いております。
合楽教会の三男の、大坪幹三郎という、肉腫ガンで4日に入院するようになっております、ということを、お届けなさいましたら、金光様が、ああ内腫ガンですかと仰ったそうです。私はそれを聞いた時にね、なんか心にヒヤッとするものを感じましたですね。いえ肉腫ガンで御座います。ていうてまたいうたら、ああ肉腫ガンですかというて、まあおっしゃったというて、その金光様は聞き違えられたというその言葉がね。
内腫ガンですかと仰ったという事を、昨日お届けになりました。内腫ガンなんていう病気はありますまいね。 けれども私はその、結局その病気というものはね、なるほど形においては、なんなんである病と言うけれどもです。やはりどこまでも、これは、これを信心で言うならば、霊的なものでしょうから、言うならば形の病気はやはり心の病気だと頂くべきでしょうからね、何かそんなものを感じました。
こりゃ私し、私しはじめ、なら合楽の信奉者の皆さんがそのことを、いよいよ一心の誠をいわば捧げての願いと。うって一丸になっての願いがこのようにして、続けられておりまたは、行くことでありましょうがです。私共がそういうその内腫的なもの、内に溜まっておる、いわゆる、汚いものとでも申しましょうか。そういうものを取り払い、清め払わした頂いての事こそ、私は、一心の誠を捧げることになろうと思います。
私が改まりますからどうぞということになって来る。それが10人が100人となって来る時に、大きな力になることでしょうね。なるほど、お初穂を奉って、幹三郎ちゃん、また幹三郎君というて、お取次ぎを願われる。それを私が、取り付かれてお取次ぎをさせていただく。まあそれも有難い。けれどもそれにもうひとつ、一心の誠を捧げるということは、その内腫的なものですね。
これは私がここでいろんな、お取次ぎをさしてもらって、本人がまだ信心がまだほんと出来ないときには、この人に言うても、話をしても解りません、まず助からなければなりませんから。取次ぎ者である私が改まりますからどうぞ、おかげを下さいと言うて願うことがあります。私が改まらせてもらいますから、というわかなんです。だからそう言うなものがそのことを、一心に願われる方達の上には、どうでも一緒になさらなければならんのじゃないかとこう思う。
丁度、用意万端、朝から昨日、富永先生の奥さんがあちらにおいでられて、頂いてもう丁度一時過ぎでしたでしょうか、あちらの神事が済みましたから、でてお迎えに行って頂いた。杉山さんが朝からお参りして来て。では今日の御用は私がさしてもらうからと言うて、自動車を持って来ていただいとりましたから。丁度2時にここを発ちました。富永さんが言うておられますことは、もう一事が万事に、もうすむうずなことすむうずなこともう、ただただ驚くばかりで御座いましたと。
もう第一の有難いことは、あの皆んな何にも、部屋がとにかく満員だそうでしてねどこも、だから相部屋なのですところがですね、昨日の朝個室が空いた、あちらの部屋、富永さんこりゃあんた、あなたの直ぐの御親戚のかた、ふがよかったけんさちいうてから、まあ大変喜んで頂いた。それでもう、行きがかりから個室に入らせて頂いて、昨日皆、ああ立派なお部屋だそうです。
というようにですね、本当にそこに神様の働きを感じんわけにはおられない、御用をさせて頂いっとって有難いと感じるほどしの、まあお繰り合わせおかげの中に、昨日はみんなおかげを頂いたわけであります。あちらへまいりますに当りましてから、改めてまたお願いをして、ここでお取次ぎを頂きますから、私しその事をお取次ぎさせて頂いて。私は幹三郎に申しました事で御座います。
人間はね、いや本当のこと、本当の姿はね、いわゆる障子一重がままならぬということが人間の実態なのだと。今日あって明日無い命かも解らないのである。これが病気をしとるとか、しとらないとかということではない、なべておんなしなのだ。もう紅顔むなしく変じたら、もうそこには死ということが、もう誰でもそれをいとう事もなければ、かばう事も出来ないのだと。そういう厳しいものなのだ。
いうならばね、断崖絶壁に立たされているのが、今のお前の姿だと。ですから、とにかく障子一重がままならぬ人の身である自覚と、同時にその自分が今、ここに断崖に立たされておる自分ということを。自覚していくですから、向こうに行けばもう断崖絶壁なんだけれど、ここから回れ右をさせて頂いて行けば、こちらに助かる、いわば、分野というものは広々としてあるわけなのだ。
その回れ右をするということは、どういうことなのか。私共の子供で、お道の教師になりたくないと言うのは、幹三郎ひとりなんです。僕はだから、自分で選びよるとも、工業学校、高校をえらんでおりますしね。とても金光様の先生、うち若先生なんかは、小学校のときから、学校で作文なんかを、僕はお父さんの跡を継いで、金光様の先生になるという、その書いておったというので、先生が、せれを私に、お宅の息子さんは、もうあなたの跡継ぎができますよ、ちゅて言われるぐらい。
光昭だってそうである。もう小さい時から、御結界の御用もさして頂いておる。幹三郎だけは、私はそれを、金光様の先生にならにゃいかんとは申しませんでした。まあとにかく、いわゆる自由を。まあお前は教会に生まれたから、教師にならなきゃいけんいうなことは申すことはしませんけれども。例えばね、おまえがその周りにようすることは、どういうことかと言うとね。
神様が一番お喜び頂けることの考え方が出来ることだと、私は。お道の教師にならなきゃいけんぞとは申しませんでしたけれどです。一番神様がお喜び下さることは、人が助かるということなんだと。私に寿命があるかないか解らないけれども。もし私に寿命を頂くならば、人が助かることのためのお役に、御用にいわゆる、世のお役に立ちたいという。立たしてくださいという。いったようねものよりか、もっともっと切実にです。
世のお役に立たせてください。ではなくて、人の難儀が助かる、人が助かる事のために、私を使い。私に余る命があるとするなら、お使いくださいといったようなことなら、これはもう完璧に回れ右することだろうね、と言って出がけに申しましたことで御座います。いわゆる人が助かることさえ出来れば、人間は人を助けることが出来るということ。ものやら、金やらでも助けることはできますけれども。
例えばこの「75節」で頂きますと、心で傷つけたり、心で殺すができるのが人間であります。だからその、反対に、こころでその傷をいやし、こころで人を助けるのもまた、人間にある。そういう助け方は、信心してそのことが有難いと心得ての信心にならなければならないということなんです。そこに私は本当に、心で人を助けられるほどしの、おかげを頂く時です。よくぞ神様から一礼申すといわれるほどしのおかげ、それが御神徳であろうと、私はまあ思うので御座います。
そのためにはいわゆる、金光様のお言葉としてです、これは私は、そのことを、竹内先生はもうなにげなく、そう、金光様お取次ぎ頂いた模様を仰ったけれども、私としては肉腫ということではなくて、それは無い腫だと頂きました。無いようにある所の、うみであろう、汚いものであろうと、心の中にそれこそ、肉腫の血膿に似たようなものがです、あることだろうと。
昨日私、その先日、柿狩りに参りました時に、もう柿が熟しに熟しきっておる柿が、今にも落ちそうにしておるのを、私は枝から一枝降りてそれをお土産に頂いて帰ってきた。 昨日一日、私しは、その私の控えにその置物を置いたようにして、昨日は一日眺めさせていただいたんですけれどもね。本当にこの柿の姿こそ、幹三郎の姿ではなかろうかと、私おもうたです。
もう落ちたらもうそりゃおしまい。まあそれを拾うて食べたいとも思わないでしょう。けれどもまだ、枝になっておる間はね、あれは不思議に冷蔵庫にでも入れとくと、またその頂きますよね。そういう例えば加味したようなところ、この頃レントゲンで見つかりました結果、あれはここの骨は全然ないそうです。無くなってしまってるそうです。カチカチしとるのは、あれは、それはバイキンが固まっとるそうです。ですからひょっとするともう手術も出来ないかもしれん。それがどうなるか解らんその事は。
いうなら千にひとつ、万にひとつというほどしの、例えば助かるということは、であろうけれども。しかしね出来ないことを、不可能なことを可能にして下さるのが神様。助からん所を助けて下さる。力をもってござるのも神様。だからそういう働きをです、そこに現すことのできるのは、やはり人間なのです。成程紙一重のことだなと実感致します。